心療内科・精神科医として

座右の銘や尊敬する歴史上の人物はない
 先日、ある方がひーこ先生に「座右の銘は何かおありですか?」と尋ねられたが、ひーこ先生からの回答は「特には何もありません」と素っ気なかった。あとで「本当に座右の銘はないのですか?」と確認したが、やはり特にはないらしい。尊敬する歴史上の人物や影響を受けた先人の書物も特にはない。特定の信仰を持っているわけでもない。ひーこ先生の価値観を探ろうとする人にとっては、暖簾に腕押しのようで捉えどころがない。しかし、ひーこ先生本人は口にしないが、影響を受けている書籍や先達・先輩の生き方は様々にある。

影響を受けた高橋幸枝先生の「こころの匙加減」
 その一人が、一昨年103歳で永眠されたが、それまで100歳を超えても現役精神科女性医師として最前線で活躍された、神奈川県にある秦和会・秦野病院の前理事長、高橋幸枝先生である。高橋先生は海軍のタイピンストを経て33歳から医者の道を志し、50歳を超えて神奈川県秦野に精神科病院を立て、地域医療に尽力された。その生き方・考え方は「こころの匙加減」(飛鳥新社発行)という書籍等に記されており、ひーこ先生はその書籍を読み、大いに勇気づけられた。高橋先生の経歴にタイピストがあることも、ひーこ先生自身の病理学教室時代の姿と重ね合わせるところがあったのか、読了した後しばらくは、高橋先生の話ばかりをしていた。
 もちろん、ひーこ先生は自らのクリニックを開業したばかりで、専業主婦時代に医師としてのブランクも経験し、高橋先生のようにキリスト者でもなければ、院長としての大きな実績を持っているわけでもない。しかし、100歳でも現役医師として社会の役に立つという現実的イメージを抱いたのは、高橋先生の影響が少なからずあると思われる。

自然体で生きる
 雑誌「サライ」(小学館発行)のインタビュー記事のなかで、高橋先生が「90歳を過ぎた時から、世間はいろいろと話題にしてくださるのだけれど、特に自慢できるようなことなんてないんですよ。医者という仕事を、人より少し長くやってきた。ただそれだけです」と語っておられるが、ひーこ先生も同じように、常日頃「自慢できる特別なことなど何もない。ただ、目の前の患者さんに一生懸命に対してきただけ」という言葉を繰り返す。“自然体”という言葉が二人から思い浮かんでくる。

一人の人間として

片付けが不得手 
 誰にでも不得手はある。ご多分に漏れず、ひーこ先生にも不得意なものがある。片付けが得意ではない。
 専業主婦時代は、毎朝夫の歯科診療の準備を消毒からこなしていたので、掃除や片付けが嫌いなようには見えないが、細かく収納場所を決めてまめに片付けるということはしない。性格が大らかであることも影響しているように思われるが、専門書籍などの本は平積みされていることが多い。「どこに何があるかはわかっている」「収納棚や本棚があれば片付く」と本人は話すが、収納棚などを置くスペースがないため、平積みの本を一旦片付けてからということになるので、実際のところあまり収納は進まない。なぜスペースがないのか。

物を捨てない
 物を捨てないから。片付けが不得手な最大の要因が“捨てない”ことだと思われる。ひーこ先生は「もったいない」という言葉をよく口にする。戦中戦後の物が無い時代を過ごした経験からかもしれない。しかし、宅配便で届いた荷物の梱包用ダンボールをとっておく。贈り物でのしが付いていれば、のしもとっておいたりする。さらには、A4の大きさの使用済み封筒なども大切にとってある。子供の40年以上前の学生時代の制服も保管している。本人に尋ねると「誰かその学校に行くかもしれないし、そのときはあげようと思って」という回答が返ってきた。大切な気持ちだが、果たして40年以上も前の制服が今の子供に必要になる機会があるのか。
 当然のように、書籍関係も捨てないで置いてある。何十年も以前の専門誌も。スペースは狭まるばかり。古紙回収に出したり、古本屋に委託するということをしない。ましてやメルカリに出品することは頭の中にもない。
 ただ、色々なものを保管しているので、ごく稀に助かる場合がある。そのことに対して感謝の意を表すと、「ほら役に立つでしょ?」とでも言わんばかりの微笑みを浮かべ、子どもたちが何かを捨てようとすると悲しい顔をする。
 そんなひーこ先生の姿を見て、子どもたちの片付け上手下手は二つに分かれる。似る子ども、反面教師になる子ども。ただ、世の子どもたちの多くが「早く片付けなさい!」と母親から怒られている場面を見聞きするが、そのような場面に遭遇したことがないことは、ひーこ先生の子どもたちにとって幸せだったと言えるのかもしれない。
 

一人の人間として

肌のお手入れ
 ネット上に掲載されているひーこ先生の写真を見て、「ものすごくお若く見える」「90歳とはとても思えません」といった外見の若さに関する感想を聞くことが多くある。ひーこ先生本人は年齢のことを改めて言われることを好まないが、暦年齢からはかなり若く見えるのは確かだ。実際、近くで見ても顔にシワが非常に少ない。羨ましい限りだ。その秘訣は何なのか。
 一つ確実に言えることは化粧品、とくにスキンケア製品にお金をかけていることだ。比較的若いときから、ずっと変わらずに資生堂のクレ・ド・ポー ボーテを使い続けているらしい。本人としては、“お酒もタバコもしないし、貴金属や贅沢品も買わないし、旅行にも行かないから、このくらいは贅沢してもいいかなあって思って“と少し恥ずかしそうに話す。
 化粧水、美容液、クリーム、そして化粧下地にファンデーションはすべてクレ・ド・ポーのようだ。ただ、本人曰く、厚く塗らないので、一つで長く持つらしい。つまり、毎月買うわけではなく、買う頻度は少ないが、良いものをスキンケアに使い続けているというわけだ。今でも、鏡で自分の顔を見て目の上に少しシワが出てきたかも?と感じると、シワ改善美容液を部分使いで少しずつ塗り続けたら、4ヶ月目ぐらいからシワが消えてきたという話も聞いた。これもクレ・ド・ポー。

継続は力なり
 最近では、男性も若い世代を中心にスキンケアに化粧品を使うのが普通になってきているが、ひーこ先生のシワの極めて少ない顔をまじまじと見ながら、スキンケアの大切さ、そして継続することの大切さを痛感する。大切だとは思っても、大切なことへの投資をずっと続けることは難しい。ただ、続けていれば結果が出ることをひーこ先生は身をもって教えてくれている。

2022年6月7日心療内科・精神科医として

診療内容に合わない患者さんもいる
 ひーこ先生に励まされる患者さんがいる一方で、診察内容に合わない、あるいは満足できない患者さんもいる。
 ひーこ先生の基本的な診察スタイルは、患者さんの話を一生懸命に聴いた上で治療方針を立て、治療もしくは症状の緩和のために、その時点で最善と見立てた薬剤(主に漢方薬)を処方するというものである。将来的にカウンセリングを取り入れたいという夢は持っているが、現時点では認知行動療法やカウンセリングには対応していない。薬に頼らずに何とか症状が良くなることを期待される患者さんの中には、納得がいかない方もいる。また、漢方薬は即効性より全体的な体調を整えながら徐々に効いていく場合が多いので、即効性を期待される患者さんには物足りない場合もある。
 また、発達障害や拒食症・過食症、児童/思春期精神治療なども専門外なので、コロナ禍などで自宅に引きこもり困っておられる親子さんの要望にもなかなか応えられない。
 当然ではあるが、高齢のひーこ先生を見て、人生も含めて経験の豊かさに希望に感じる人もいれば、逆に不安を抱く方もいるだろう。高音域の子音の聴き取り能力が加齢に伴って落ちるため、本人はそれをカバーすべく、診察時は通常の会話よりも一生懸命に聴き取ろうと努力しているが、聴き取り漏れもあることは想像できる。患者さんへの口調は優しいが、必要だと考えたことは明確に患者さんに伝えようとするので、励まされる患者さんがいる一方で、ストレートな意見に引っ掛かりを覚える患者さんもいるかもしれない。

マイナスなことは明日の成長の糧に、出来る限りの診療を心がける
 “すべての症状に対応することは難しいし、過度な期待をされても却って患者さんに迷惑をかけるから”と、ひーこ先生は背伸びはせず自然体を心掛ける。自身が処方した漢方薬を信じて服用してくれる患者さんを前に、患者さんの改善した姿を思い描きながら、ひーこ先生は今日も漢方薬を処方し、“服用を継続してくれれば必ず良くなる。まずは飲んでみてください”と語りかける。
 そうは言いながらも、治療が完了しないまま来院しなくなった患者さんのことが気になるのか、“処方した薬を飲んでもらえていたらいいね”、“他で通院して元気になっていたらいいね”と語りつつも、カルテを眺めながら、漢方薬関連の書物や精神治療等の雑誌論文、講演会で学んだことを読み返して、“この処方のほうが良かったかも”とつぶやく。ひーこ先生としても、寂しさを多少なりとも抱いているはずだ。しかし、そんな素振りはあまり見せない。
 念のため“漢方薬の効用を説明する前に、治療方針をきちんと伝えて患者さんの了解を取ることを忘れないようにしないといけないですね”と年下のスタッフから言われても、“そうだね”と素直に受け入れて実践している。色々な想いを抱きながら、マイナスなことがあっても明日の成長に糧にしている。

2022年6月1日心療内科・精神科医として

ひーこ先生に励まされる患者さん
 ひーこ先生のクリニックを訪れる患者さんは女性が圧倒的に多い。
 患者さんの来院理由では「漢方薬の処方を希望して」というものが最も多い。「女性特有の体調不良の相談」というものも多いが、「経験が豊富そうだから」「女性医師なので」という理由も聞く。「ホームページや紹介サイトの写真を見て、安心して話せそう」「サイトの写真の笑顔がステキで」「サイト写真が優しそう」というひーこ先生の写真の笑顔に惹かれて、というものもある。
 「近くの薬局に相談したら、じっくり話を聴いてくれるはず」ということで来院された場合もあった。受診してみて実際はいかがでしたか?と尋ねてみると、「ちゃんと話を聴いてもらえたので」という答えが返ってきた。薬局の方を嘘つきにせずに済んだようである。
 殆どの場合、来院されるまでひーこ先生の実際の年齢を知る人はいない。しかし、何歳なのだろうと関心を持ってブログやWeb上の紹介記事を読み、実年齢を知って再診に訪れる患者さんが少なからずいる。「とても90歳には見えない」と言って驚くとともに、「先生に逆に励まされました。私も頑張らないと」と笑顔でクリニックを後にする。
 高齢の母親を連れてこられた中年女性は「母を連れてきて本当に良かった。母が“私もしっかりしないと”って自分から言ってくれました」と目に一杯涙を溜めながら語った。初診のときは生きる希望がないと話して娘に連れられてきた別の高齢女性が、いつの頃からか遠くから自分ひとりで来院するようになり、ひーこ先生の前で「栄養に気をつけて食事をするようになりました」と話すようになった。

患者さんに元気をもらうひーこ先生
 一方で、ひーこ先生自身も患者さんの話に一生懸命に耳を傾け、漢方薬の効用を語りながら、患者さんから元気をもらっているようにも見える。開院前後心配が絶えなかった頃と比べて、愚痴にも聞こえる話がめっきり減った。声にも心なしかハリがあるようにも感じる。患者さんがクリニックを出た後、「前回より笑顔が増えた」「多少寝れるようになって良かった」とつぶやくひーこ先生の横顔は何となく嬉しそうだ。
 ある日、午前の診療時間がかなり延びて、午後診療の開始時間までの休憩時間がとても短くなった。ひーこ先生は、顔色一つ変えずに、その休憩時間を紹介状や診断書を書く時間にあてた。夜7時半ごろ、その日の最後の患者さんに「お大事にね」と声をかけて送り出したあと、一息つく暇もなく、昼間自分で洗った弁当箱を拭きながら片づけ始めた。「今日はたくさん患者さんを診たので疲れたでしょう?」と尋ねると、「たしかに頑張ったねぇ」とひーこ先生は笑顔で答えた。本当にタフだ。
 もちろん、良い場面ばかりではない。ひーこ先生と合わないと感じる患者さんもいる。

心療内科・精神科医として

開業後数ヶ月は閑古鳥が鳴
 ひーこ先生が昨年11月末に心療内科・精神科クリニックを新規開業してから、いつの間にか半年近くが経とうとしている。患者数ゼロからの出発だったため、数ヶ月はクリニックも閑古鳥が鳴いていた。口コミや紹介で来院する患者さんも、いつ来ても他の誰にも合わないなあ、と不思議に感じていたかもしれないが、患者さんが少なかっただけである。
 その頃、周囲からは早くも、辞めておいたほうが良かったのでは?とか、閉院・撤退するタイミングをそろそろ考えた方が良いといった声も聞こえてきた。診療報酬も少なく、余剰資金もないため広告も出すことが出来ず、ホームページ作成を依頼する費用もなかった。ひーこ先生自身も、”半年か一年で閉院することになるのに開院すること自体、無責任ではないのか”という言葉を直接投げかけられたこともあった。身近な人から「大人のごっこ遊びだね」と冗談ぽく言われもした。

心配や不安とは上手く付き合っていくしかない
 90歳で開業するなんておこがましいのではないかという気持ちを元々持っていたひーこ先生だけに、そのような言葉を聞いて、一時的には気分が落ち込んだ。やはり辞めておいたほうが良いのかと考えもしたが、辞めて他に何かしたいことがあるわけでもなく、コロナ禍で苦しむ人たちのために自分自身が少しでも役に立つことが出来たらという想いは消えない。“周りの声なんて気にせず、お母さんのことを待っている人たちがきっといるから、その人たちの方を向けばいいんじゃない”という娘たちからの言葉に背中を押され、心配や不安とは上手く付き合っていくしかない、出来ることを精一杯やるしかないと、ひーこ先生は考えたという。

閑古鳥の声ではなく、患者さんの声がする診察室
 周りのサポートでホームページも無料で作成してもらい、色々な病院検索サイトの協力も得て、ネット上で情報が出るようになると、開業後4,5ヶ月経ったころから少しずつ患者さんが増え始めた。コロナ禍で心療内科を受診する患者さんが増えたのか、他の心療内科・精神科クリニックで予約が取れないからという理由で仕方なく来院された患者さんもいらっしゃったかもしれないが、ネット上のひーこ先生の顔写真を見て、その笑顔に安心してお越しになる方もいた。
 開業から半年経った現在、閑古鳥が鳴くことはなくなった。目の前の患者さんが話す内容に対して、声の調子やテンポ、表情、雰囲気、そしてこれまでの人生経路などを気にしながら、一生懸命に耳を傾けている。時々、ひーこ先生は、何気なく“半年か一年で閉めることにならないようにしないとね”という言葉を口にする。ひーこ先生の中に宿るちょっとした反骨心から発せされるように思える。

漢方専門医として

漢方を学ぶきっかけは末娘の病気
 精神科医として再スタートを切ってしばらくは、ひーこ先生も通常の精神科医の先生方と同様に、患者さんにはご本人の精神障害の症状に合わせた西洋薬を主に処方していた。今でも精神科の薬物療法としては西洋薬が一般的で、漢方薬はあくまでも補助的な使用に限られている場合が多いが、当時は漢方薬を処方する精神科医は非常に少なかった。
 転機は今からおよそ30年ほど前。ひーこ先生の末娘が風邪をひいたため、風邪の諸症状に処方する漢方薬を飲服用させたが、状態がかえって悪化。たまたま漢方講演が開催されたため、講演後に講師の先生に指示を仰ぎ、直ちにその薬の服薬は止めたが、漢方服用により間質性肺炎を引き起こしており、一歩間違えば重篤な状態になるところだった。
 日本では、1967年から漢方製剤の保険適用が開始し、医師免許があれば他に特別な資格がなくても漢方薬を処方することが可能であるが、本場中国では漢方を専門的に取り扱う中医師免許があるほど、漢方は奥深いものである。漢方処方の難しさを自身の娘への処方を通して痛感したことで、ひーこ先生は本格的に漢方処方の勉強を始めなければと強く思った、という。

専門医の取得を目指す
 日本東洋医学会や漢方製剤会社をはじめとする漢方処方の研修を積極的に受け始めたひーこ先生だったが、単に学ぶだけでは満足しなかった。上述の末娘の件でお世話になった講師の先生が、京都では漢方に非常に詳しい先生だったこともあり、疑問に思うことや迷うことがあれば直接先生に問い合わせて教えを乞うた。
 患者さんの診察にも積極的に漢方薬を処方するようになり、西洋薬でなかなか治癒しない患者さんが漢方服用により、見違えるほど笑顔になっていく姿を多く目にした。そのなかには漢方系の研究誌に研究報告をした症例もあり、多くの経験を積んだ。そして、学び始めて約10年後、漢方専門医を取得する。それは、京都の心療内科・精神科医では極めて稀であった。ただ、とくに女性の場合、漢方処方により体の不調だけなく、心の不調も改善に向かうという確信があった。
 ひーこ先生にとって、漢方処方はいまだ学習途上だという。漢方は奥が深いと日々痛感するという。さらに勉強を進めて、専門医となって20年を経過した今からでも少しでも成長しようとしている。様々な治療を受けてもなかなか改善しなかった患者さんから「良くなりました」と笑顔で報告してもらいたいと願いながら。

心療内科・精神科医として

様々な葛藤を乗り越え、医師復帰を決意
 忙しく大変な日々にあって、自身の興味があることに飛び込んで、行動しながら学びつづける、充実した専業主婦時代だったが、ひーこ先生は、医師としての仕事を続けたいという思いにかられ、上の三人の子どもたちが大学に進学したのをきっかけに、医師復帰を決意した。
 その当時のことをひーこ先生は多く語らないが、学びや成長に対する貪欲なまでの意欲、あるいは向上心とともに、様々な葛藤もあったに違いない。上の三人の中から、夫の職業である歯科医師を継ぐことができる歯科大生、自身の医師として系譜を継ぐ医科大生が出たことにより、一区切りの思いはあったことが想像されるが、まだ小学生を含む四人の子どもたちの子育てや家事も残っていた。医師としての14年にわたる長いブランクもあった。再び出来るのかという不安も多くあったことは想像に難くない。しかし、何かを新しく始めるには50代というのは、体力的にも気力的にもギリギリのラインだったに違いない。
 さらには、医師スタートと結婚・出産がほぼ同時期で、医師として十分に活躍できていない思いや未達成感があったかもしれない。また、女性医師が一般的ではない時代に、自身が医師になるために、ずっと応援し協力してくれた母親に恩返ししたい、という想いもずっと抱いていたのかもしれない。多くの思いを抱えていたと思われるひーこ先生の背中を夫がそっと押した。

産婦人科ではなく、精神科医師として再スタート
 ひーこ先生は、思い切って、大学院時代の恩師に医師を再出発したい旨を相談した。ひーこ先生は神経内科、とくに脳神経関連を勉強し、貢献したいと考えていた。恩師は、快く相談に応えてくれたが、当時は母校に脳神経科がまだなかったらしく、精神医学教室を紹介してくれたという。
 1983年、京都の母校の精神医学教室に入局し、精神科医師となるべく、再スタートを切った。年下の指導教官に教えを乞いながら、寝る間を惜しんで精神医学を学び、患者さんの話を聴いた。研修と診察を兼ねて、週に一度は名古屋まで出かけた。それでも家事・育児はさぼらなかった。

母への感謝を抱きながら、経験を積む
 さらに忙しい日々を送りながらも、精神科医師としての経験を積むことに必死だった。京都の岩倉にある精神科病院に新たに働き口を見つけ、病気に苦しむ患者さんを治療するために一生懸命に患者さんに向き合った。
 当時を振り返るとき、ひーこ先生はいつも「健康な体に産んでくれたから」という言葉を口にする。戦時中、母は自分の大切な着物を売ってお米に替え、自分は栄養失調で体を壊しても娘には食べさせてくれた。ひーこ先生は、戦時中の12歳のとき、全国の健康優良児として表彰された。その母親のおかげで、どんなに忙しいときも体を壊さず、医師としての仕事を、家事・育児と両立させることができた、とひーこ先生は思っている。亡き母がひーこ先生の原動力の一つであることは間違いない。

2022年5月19日一人の人間として

興味・関心のあることにチャレンジし、行動しながら学ぶ
 専業主婦時代、家事や子育て、夫の歯科診療所の手伝いなどに追われながらも、ひーこ先生は自身の関心のあることに積極的にチャレンジした。四柱推命、女子栄養大学(栄養学)の通信課程はその代表であるが、それ以外にも興味があることにはまず飛び込んで、行動しながら学んだ。卒業までは至らなかったものの、実は慶応大学文学部(通信課程)にも入学し、主に心理学を学んだ。その行動力は子どもたちも驚くばかりで、知らないうちに、いつの間にか学びが始まっているというのが少なくなかった。その学びに対する貪欲さというのは90歳になった今でも健在である。
 四柱推命は、独学ではなく先生に師事して本格的に学んだ。動機は子どもたちの健康や将来のことで、何か気づきがあれば備えたいというところからだったとひーこ先生は言うが、家族の運勢をみるだけではなく、医師に復帰してからは周りの人たちの運勢もみて、親身にアドバイスをした。
 女子栄養大学の通信課程では、忙しいなかでも添削課題を提出し、スクーリングもこなし、無事卒業を果たした。そのときに学んだ栄養に関する知識や関心は、心療内科で患者さんと会話する中にも随所に表れる。必ずと言っていいほど、患者さんの日常的な食生活を尋ね、食事や栄養が偏っていないかを確認する。ひーこ先生は、精神と栄養とは深く関連していると考えていて、ビタミンB群などが不足しているとうつ病になりやすいという研究報告もあることから、患者さんの栄養状態には関心が深い。専業主婦時代の学びはそんなところにも生かされている。

学びと行動の結果、現実がいつの間にか変化していく
 学ぶこと、成長することにつねに前向きで、現状に甘んじたり、埋もれたりすることがほぼない。多くの場合、目の前の希望のない現実が今後も続くかもしれないと考え、不安で一杯になるように思われるが、ひーこ先生の場合、同じように不安になったり、逆にその現実と対峙してもがいたりわけではなかった。様々な厳しい現実を目の前にしながらも、自身の関心あることにチャレンジしながら、周りの役に立ちたい、そのためにさらに学びたいという想いをもち、行動しつづける。そして、自身が学び、成長する過程で、目の前の現実がいつの間にか変化していく、そんなひーこ先生の専業主婦時代の日々だった。

2022年4月27日母として

 ひーこ先生の子育ては、もちろん大変なことばかりではなかった。七人の子どもたちは、それぞれにひーこ先生から愛情を感じながら、にぎやかな家族のなかで、事件や事故を起こすことなく、比較的自由に成長していった。

無理をしても子どもたちに寄り添う
 子どもたちが困っていたりすると、自分が多少無理をしても手伝う側面がひーこ先生にはあり、子どもの夏休みの課題などを手伝って徹夜したりすることもよくあった。そんなときでも、翌朝はいつも通り家事をこなして、体がきつそうな素振りは見せなかった。子どもたちに必要だと思ったり、子どもがやりたいと望めば、習い事も極力させた。そろばん、ピアノ、エレクトーン、バイオリン、柔道に、絵画教室、塾など、お金がかかって多少無理してでも、なんとかやり繰りしながら習わせた。無論、子どもたちには親がやり繰りしていることは知る由もなく、習い事の帰りに時々美味しいものを奢ってもらうことを楽しみに通っていたのかもしれない。

“大らかな”性格
 子どもたちは、自分たちが小さかった頃のひーこ先生のことを語るとき、良く言えば“大らかな”性格のことを微笑ましく回想する。家族が九人もいれば、各自の皿に料理が盛り付けられるような手間のかかることはなく、肉と野菜が大皿にドンと載っていて、それを各自が自分の取り皿に取って食べた。もちろん早い者勝ちなので、のんびりしていると料理にありつけない。のんびりした大人しい性格の子どもが育つはずもなかった。
 子どもたちに持たせるお弁当は、ひーこ先生の性格を物語る一つの象徴だった。白ご飯に白い餃子ということもあった。ご飯が炊けるのが朝の通学時間に間に合わず、昼休みに学校にお弁当を届けてもらった子どもがお弁当を開けてみると、おかずの入れ物にも白ご飯が入っていて、白ご飯をおかずに白ご飯を食べた、というエピソードもあった。
 ひーこ先生には潔癖症のところがあり、夫の歯科診察室の医療器具を毎日消毒するのに合わせて、他のところもよく消毒液で消毒していたため、子どもたちは学校でよく消毒液のニオイがすると言われていた。勢いあまってノートパソコンを消毒液で拭き掃除することもあった。残念ながら、パソコンの基盤に消毒液が染み込んでショートし、壊れたりしたこともあった。

上の兄姉が下の弟妹の面倒を見て、ひーこ先生を助ける
 子どもが多いので、旅行に連れていくというのは大変なことだった。そのため、旅行の行き先は決まっていた。毎年夏休みになると、日本海のある海水浴場で子どもたちは海水浴をした。それが恒例かつほぼ唯一の家族旅行だった。
 子どもたちは、男部屋と女部屋に分かれ、兄弟喧嘩をしながらも、誰かひとりが歌いだせば、勉強をしていても他の誰かが一緒に歌いだす。そんな共同生活をしながら成長していった。下の子どもたちが生まれる頃には長女・長男は手伝いのできる年齢となり、小さな弟妹たちの面倒を見て、母親を助けた。
 ひーこ先生は長女・長男などに助けられながら、家事・育児に埋もれることなく、専業主婦時代を過ごしていった。