第10話 50歳代からの再スタート

様々な葛藤を乗り越え、医師復帰を決意
 忙しく大変な日々にあって、自身の興味があることに飛び込んで、行動しながら学びつづける、充実した専業主婦時代だったが、ひーこ先生は、医師としての仕事を続けたいという思いにかられ、上の三人の子どもたちが大学に進学したのをきっかけに、医師復帰を決意した。
 その当時のことをひーこ先生は多く語らないが、学びや成長に対する貪欲なまでの意欲、あるいは向上心とともに、様々な葛藤もあったに違いない。上の三人の中から、夫の職業である歯科医師を継ぐことができる歯科大生、自身の医師として系譜を継ぐ医科大生が出たことにより、一区切りの思いはあったことが想像されるが、まだ小学生を含む四人の子どもたちの子育てや家事も残っていた。医師としての14年にわたる長いブランクもあった。再び出来るのかという不安も多くあったことは想像に難くない。しかし、何かを新しく始めるには50代というのは、体力的にも気力的にもギリギリのラインだったに違いない。
 さらには、医師スタートと結婚・出産がほぼ同時期で、医師として十分に活躍できていない思いや未達成感があったかもしれない。また、女性医師が一般的ではない時代に、自身が医師になるために、ずっと応援し協力してくれた母親に恩返ししたい、という想いもずっと抱いていたのかもしれない。多くの思いを抱えていたと思われるひーこ先生の背中を夫がそっと押した。

産婦人科ではなく、精神科医師として再スタート
 ひーこ先生は、思い切って、大学院時代の恩師に医師を再出発したい旨を相談した。ひーこ先生は神経内科、とくに脳神経関連を勉強し、貢献したいと考えていた。恩師は、快く相談に応えてくれたが、当時は母校に脳神経科がまだなかったらしく、精神医学教室を紹介してくれたという。
 1983年、京都の母校の精神医学教室に入局し、精神科医師となるべく、再スタートを切った。年下の指導教官に教えを乞いながら、寝る間を惜しんで精神医学を学び、患者さんの話を聴いた。研修と診察を兼ねて、週に一度は名古屋まで出かけた。それでも家事・育児はさぼらなかった。

母への感謝を抱きながら、経験を積む
 さらに忙しい日々を送りながらも、精神科医師としての経験を積むことに必死だった。京都の岩倉にある精神科病院に新たに働き口を見つけ、病気に苦しむ患者さんを治療するために一生懸命に患者さんに向き合った。
 当時を振り返るとき、ひーこ先生はいつも「健康な体に産んでくれたから」という言葉を口にする。戦時中、母は自分の大切な着物を売ってお米に替え、自分は栄養失調で体を壊しても娘には食べさせてくれた。ひーこ先生は、戦時中の12歳のとき、全国の健康優良児として表彰された。その母親のおかげで、どんなに忙しいときも体を壊さず、医師としての仕事を、家事・育児と両立させることができた、とひーこ先生は思っている。亡き母がひーこ先生の原動力の一つであることは間違いない。