母として

家事・育児
 ひーこ先生は専業主婦の道に入った。家事・子育てに専念するようになった後、さらに二人の子どもを出産し、七人の子どもを抱えるようになる。一番末娘の出産を前後して、子育てをサポートしてくれていた実母が病気がちになり、しばらくして帰らぬ人となった。一人っ子のひーこ先生が、このとき相当の重荷と孤独を感じたであろうことは想像に難くない。
 七人であろうとも、子ども全員の希望を叶えるだけ十分な教育を受けさせたいと考えていた夫は、専業主婦になったひーこ先生の分も、必死になって働いた。と同時に、子どもが小さい時期の躾には比較的厳しく、とくに男の子どもに対しては叱って外に放り出すということも少なくなかった。そのときのひーこ先生の役割はそっと子どもたちをサポートすることだった。躾に厳しかった夫だが、ひーこ先生自身とともに、子どもたちにあまり“勉強しろ”という言葉は口にしなかった。のちに“あのとき勉強しろと言われなかったから自由に勉強することが出来た”と振り返って、感謝しながら当時を懐かしむ子もいる。

ひーこ先生を悩ませる子どもたち
 七人もいれば、各自に部屋が与えられるほど裕福ではなかった。部屋は男の子と女の子に分けられ、“男部屋、女部屋”と称された。子どもたちは一人になる環境がなかったこともあり、よく兄弟喧嘩をしたが、ひーこ先生は“兄弟なんだから仲良くしなさい”とよく言った。一人っ子のひーこ先生にとって、兄弟が喧嘩をするということ自体が理解できるものではなかったのかもしれない。
 よく食べ、よく活動し、よく勉強できる環境を与えられた子どもたちだったが、彼らなりに悩みや葛藤も抱えていた。腎炎で長期入院を余儀なくされた子もいた。危ないと噂された宗教団体に首を突っ込む子も現れ、通っている高校の先生にひーこ先生が心配して相談することもあった。登校拒否になって苦しむ子もいた。子どもの飲酒が理由で親が中学校に呼び出されることもあった。その度に、夫は“自分の教育の結果だから仕方がない”と半ば達観したようなそぶりを見せていたが、ひーこ先生自身も、苛立って子どもを非難することはほとんどなかった。夫のことでも心配はあったに違いない。表立って不安や心配な様子は見せなかったが、内心は心配と不安でいっぱいになるときもあったに違いない。

体調を崩したり寝込むことなく日々を送る
 それでも、ひーこ先生は、悩んで体調を崩して寝込んだりすることはほとんどなかった。目の前のすべきことをこなした。本人は“健康な体を与えられていたから”と笑って話す。実際は、日々すべきことが多く、悩んでいる暇がなかったのかもしれないが、家事・育児や大変な現実に埋もれることはなかった。生きているだけで儲けものとか、楽しいことだけを考えるようにした、などというような捉え方の工夫をしていたようでもなかった。ただ、いま目の前にあることだけが人生、とは感じていなかったように見える。

一人の人間として

 未病への対応という理想や、医師としての使命感、漢方を広めたいという熱い想いも持ちながら、基本は患者さんや周囲の人たちのことを考えたり、心配したり、その人たちのために何かすることが楽しく、それが日頃のひーこ先生の原動力ではないか、という話を書いたが、ひーこ先生がなぜそんなふうな想いを抱くようになったのか、少しその源流を辿ってみたい。

病理学教室の大学院修了、そして産婦人科医師としての出発
 10歳ごろ、親から“これからは女の子は手に職をつけないといけない。医者か弁護士を目指せれば”と言われたのがきっかけで、医者の道を志したようである。
 京都のある医科大学に在学時、病理学教室でタイピストのアルバイトをした縁で、大学院も病理学教室に所属したという。当時は今のようにパソコンの文書アプリがあるわけではなく、教授はじめ研究者が英語で論文を書く場合はタイピングが必要であったが、少しでも間違うと全文打ち直しになるため、優秀なタイピストを教室に置いておく必要があり、教室側がひーこ先生を離さなかった可能性がある。ひーこ先生も必要とされることはまんざらでもなかったのか、流れに任せて大学院はタイピストも継続しながら病理学教室で過ごすのだが、そこで将来夫となる男性と出会うのだがら、人生の巡り合わせは分からないものである。

結婚、出産、そして専業主婦へ
 大学院修了後、ひーこ先生は医師(医学博士)として産婦人科教室に入局したが、ほぼ同時期に結婚、出産(長女)を経験している。そこから8年の間に5人の子宝に恵まれたが、短い産休期間を経て、すぐに産婦人科医として現場に復帰することを繰り返した。その間ずっとひーこ先生の母親が毎日家に通って子育てを手伝った。母親との二人三脚でなんとか医師としての歩みを止めなかったが、5人目の三女が誕生したとき、さすがに医師としての歩みを一時停止する決断をする。
 ある意味、医師としての初期は、結婚、出産、子育て、仕事との両立と、人としての活動は忙し過ぎるほどだったが、医師として集中できる環境にはなかったとも言える。そして、その後専業主婦へ。自分がこのような状況に遭遇した場合、医師としての道は絶たれたと悲観的に捉える人もいるかもしれない。しかし、ひーこ先生はそうは感じなかった。

2022年4月12日一人の人間として

 未病への対応という目標がひーこ先生の原動力の一つだということを述べたが、そのことを日頃つねに考えて行動しているわけではないと思われる。では、ひーこ先生は日頃どんなことを考えて行動しているのだろう。

患者さんや周囲の人たちのことを考えたり、心配したり、その人たちのために何かすることが楽しい
 ひーこ先生が自らの考えを言葉に出すことはあまりない。ちょっとした会話や言動から推察するしかない。
 言動から見えてくるのは、ひーこ先生は、自分が関わる人のことをいつも考え、心配しているように映ることだ。診察の翌日、“昨日の朝日さん(仮名)への漢方は人参養栄湯のほうがいいかもしれない”“先日来られた夕日さん(仮名)は、もしかするとコロナの後遺症で免疫力が低下していて症状が出ているのかもしれない”などと、何の脈略もない場面で、急に話し始めることがよくある。また、孫やひ孫の誕生日をよく覚えていて、“誕生日プレゼントは何がいいだろう?”“どんなことに今興味を持っているのだろう”とつぶやいている姿をよく見かける。身近な周りの誰かが病気になると、すでに症状が治っているのに、しばらく“大丈夫だろうか?”としつこいぐらいに心配している。
 映画鑑賞や楽器演奏、菜園づくりなどといった一般的な趣味を持っていない、という。本人は“楽しい”と思えるようなことがないから”とか“無趣味なんですよね”などと話すが、患者さんや周囲の人たちのことを考えたり、心配したり、その人たちのために何かすることを楽しんでいるように見える。それが日頃の原動力なのではないだろうか。

医師としての使命感、そして漢方を広めたいという想い
 もちろん、漢方の良さをもっと多くの人に使って知ってもらいたい、という想いは強く、それが漢方クリニックでの診療の原動力であることは確かなようだ。
 また、患者さんの症状が良くなるために少しでも役に立ちたい、という医師としての想いも強く、現在も精神科医療関連、漢方関連の書物・雑誌に毎日のように目を通し、セミナーの案内を目にすれば、当たり前のように参加し、年齢に関係なく医師として今日も成長しようと考えている。セミナーの多くがオンラインになった今でも、その歩みは衰えない。映画を観ていると一時間もじっとしていられないひーこ先生だが、医療関連のセミナーであれば、パソコンの前で平気な顔で2,3時間じっと講演に耳を傾け、メモを取り続けている姿は同一人物とは思えない。

心療内科・精神科医として

 コロナ禍で不安や孤独感が大きくなったり、心身のバランスを崩したりする方が多くなっているということは、ひーこ先生が引退ではなく新規開業というチャレンジをした大きな理由の一つであるが、ひーこ先生には医師として実現したい一つの理想があり、その理想がひーこ先生を開業に導いたともいえる。

ひーこ先生の理想 ~未病への対応~
 ひーこ先生の理想とは、未病の状態で積極的に対策を施し、健康寿命を延ばし、心も身体もずっとキレイ、ゲンキ、ずっとイキイキを実現していくこと、といえる。そして、ひーこ先生が考える未病対策は、日々の食事、栄養、運動、睡眠を整えることであり、東洋医学的な漢方による体質改善である。
 未病とは、一般的に健康から病気に向かっている状態を指し、日本未病学会の定義では、①検査結果に異常はないが、自覚症状がある場合、②自覚症状はないが、検査値に異常がある場合、を指すとされている。

治療に至る以前の日々の生活習慣へのアプローチが重要
 26歳にしてiPS細胞から血管構造を持つヒト肝臓原基を作り出すことに世界で初めて成功し、30歳半ばにして東京医科歯科大学教授と横浜市立大学特別教授を兼任する武部貴則先生は、著書「治療では遅すぎる」(日本経済新聞出版)の中で、一人ひとり、また周りの人々がふだんの生活の中でもっと健康問題に介入する必要があると同時に、現在の医療には患者の周辺にいる人たちの治療・ケアという概念がない(患者の家族は精神的にも肉体的にも疲弊していることが多い)など様々な課題があるとして、次世代の医療は、病を診る医療から、人を観る次元の医療体系への拡張、すなわち、患者の生命の危機のみならず、人々の生活や人生をも対象とした新たな医療への変貌が不可欠であると、その根本的な転換の必要性を述べている。
 また、「精神疾患の脳科学講義」「研修医・コメディカルのための精神疾患の薬物療法講義」(共に金剛出版)など精神疾患の治療に関する著書の多い、帝京大学医学部附属病院の功刀浩教授も「こころに効く精神栄養学」(女子栄養大学出版部)や「心の病を治す 食事・運動・睡眠の整え方」(翔泳社)などで、心の病には日々の食事、栄養、運動、睡眠を整えることの重要性を訴えている。

100歳での現役を目指す大きな理由
 ひーこ先生は、心も体も病気や重症になってからでは、ご本人もご家族も負担が大きい、とくに心の病の場合、治療が生涯続くことも少なくなく、さらに社会の偏見も根強く残っているため、それらの負担を考えると、病気として症状が現れる前の未病の状態で、できる限りの対応をしたい、と考えており、それが当たり前になる世の中を実現したいと考えている。その実現のため、残りの人生を捧げたいと願っている。それが100歳での現役を目指す理由でもある。

2022年3月19日母として

 ひーこ先生には7人の子供がいる。孫は14人、ひ孫が1人いる。7人の子供の内訳は、男3人、女4人。全員が健在だ。ただ、夫には14年前に先立たれた。

夫に先立たれ、借金も引き継ぐ
 野球が好きだった夫は、家族で野球チームを作りたい(実際、家族9人で人数的野球チームは成立することになった)と笑って言った。歯科医として子供の養育費を必死に稼いだ。子供には勉強しろとは一切言わなかったが、医大、歯科大にも子供を送り出した。しかし、歯科医師会の重責などが身体に負担になったのか、ガンを患い、多くの人に惜しまれながらこの世を去った。夫が亡くなったとき、多額の借金が残っており、そのすべてをひーこ先生が引き継いだが、開業までにひーこ先生はその借金をほぼ返済していた。

家に帰るとひ孫の写真に癒やされる「ひーこさん」
 ひーこ先生はクリニックでは白衣を着て、しっかりした優しい医師に見えるが、家に帰ると「ひーこさん」と家族の呼び名も変わる。ひーこ先生本人はおばあちゃんと言われることを嫌がるが、帰宅すると、おばあちゃんの姿に変わる。iPhoneの待受画面のひ孫の写真を見てほっこりするのが日課である。日々送られてくる、1歳になったひ孫の成長している姿を見ているときのひーこさんの顔は、恋人の写真を見ているかのように笑っている。

いつも子供や孫たちのことを心配している心優しい母、そして祖母
 常日頃、ひーこ先生は、“私は子供たちが全員今も健在で、大きな病気もなく過ごせていることだけでも恵まれていると思う”ということを口癖のように話す。ただ、実際は子供たちや孫、ひ孫のことをいつも心配して、LINEでメッセージを送ったり、プレゼントや食べ物を贈ったりする普通のおばあちゃんだ。だが、時々注文し過ぎたり、気を回しすぎたりして、子供たちから怒られたりする。そんなときはひどく落ち込むが、しばらくすると同じことを繰り返している。周りから観察していると、これだけ子供や孫たちのことを気にするから、ボケないのかもしれない、と思うくらいである。

2022年3月29日心療内科・精神科医として

 開業したものの、患者さんはゼロ。

最初の患者さん、そして娘たちの協力
 最初の患者さんは、以前にひーこ先生から漢方を処方してもらったことがあった自分の娘(三女)だった。一年以上新規患者の診察から遠ざかっていたひーこ先生は、高齢の自分が新規開業することによる周囲からの風当たりの強さから来る自信のなさ(「今更開業するなんておこがましい、と心の中ではみんな思っているのではないか」)も相まって、不安でいっぱいだった。それゆえ、4人の娘たちはひーこ先生にとってとても有難い存在だった。それぞれに自分たちが出来る形で協力をしてくれた。歯科医師の長姉は、ひーこ先生の不安を少しでも和らげるために、遠く離れた嫁ぎ先から、自分の娘とともに日々電話での連絡を欠かさない。次妹は身の回りの世話をしながら、日々ひーこ先生の話に耳を傾ける。末妹は、孫たちを連れて実家を訪れ、話相手になる。また、ひーこ先生の一番のファンでもある。“ひーこ先生が効くと言った薬は効く”と心から信じている。
 ひーこ先生は、そんな娘たちの励ましのなかで、不安を少しずつ解消していくためにも、まずは知り合いに開業したことを連絡するところから始めた。

身体のメンテナンスの必要性が生じる ーリハビリ期間と割り切るー
 しかし、不安材料はその点だけではなかった。それまで年齢も気にせず頑張ってきたためか、眼、耳、膝をはじめ身体の色々な部分のメンテナンスが必要であることがわかってきた。年齢からすれば当然のことであるが、ひーこ先生は体もスーパーで他の人とは違うのだという思い込みが周りにもあった。だが、普通なら弱気になると思われるところで、ひーこ先生は、開業して数か月は、身体のメンテナンスもしながら、無理をせず患者さんと向き合っていくリハビリ期間と割り切ることにした。
 前例のない年齢で、患者ゼロからのスタートなのだから、最初からすべてが上手くいくはずがない、しばらくは忍耐が必要、我慢比べで負けないこと、と自身に言い聞かせながら、ひーこ先生は不安な気持ちを抑えた。

患者さんの笑顔や言葉に勇気や責任感をもらう
 12月、1月、2月と過ぎ、メンテナンスにより身体の不安材料が少しずつ消えていくと同時に、診察室で患者さんの話にじっくり耳を傾けながら真摯に対応していくと、初診時に涙を流しながらしばらく話が出来なかった患者さんが、再診時に漢方で少し落ち着きを取り戻し、笑顔を見せるようになり、その笑顔を見ながら、ひーこ先生もやる気と責任感を取り戻し、不安感も少しずつ和らいでいくのを感じていた。
 そうしている間に、クリニックのホームページやWeb予約サイト、ブログサイトなども順々に立ち上がり、インターネット経由で患者さんの予約も入り始めた。インターネット経由で初めてひーこ先生を見た患者さんから、再診時に「漢方が思ったよりも飲みやすくて落ち着いてきたのもあるんですが、先生のお顔を拝見することで凄く安心できて・・・」という言葉をもらうことで、ひーこ先生自身にも希望が見え始めた。元気でありさえすれば、役に立つことはできる。

2022年3月19日心療内科・精神科医として

 令和3年12月の誕生月を目の前にして、通称「ひーこ先生」は京都で心療内科・精神科を開院した。90歳目前で新規開院するなんて馬鹿げている、リスクしかない、患者さんに責任を持てるのか・・・などという声も周囲から少なからず聞こえていた。
 遡ること約一年前、勤務先のクリニック院長から外れ、初診の患者さんを診ることもなくなり、事実上の引退勧告をされており、ひーこ先生は引退すべきか真剣に悩んでいた。

高齢であることによる様々な壁葛藤
 普通に考えれば、89歳まで現役医師として患者さんに向き合っているだけでも大したことと言えるのではないか。周りからよく頑張ったと拍手喝采を浴びてもいいぐらいかもしれない。しかし、ひーこ先生にとって暦年齢は関係なかった。本人曰く、年齢をほとんど気にしたこともなかった。医師に定年がないのも確かなことだった。コロナ禍で心身のバランスを失い、苦しんでいる人が多くいる、という話も周りから聞こえてきていた。
 個人クリニックを開業して、それまで培ってきた30年以上の精神科医としての経験と20年以上の漢方専門医としての経験を生かし、心身のバランスを崩した、とくに女性の患者さんに対して、比較的副作用の少ない漢方処方をメインとした治療を施し、役に立つという選択肢は本当にないのだろうか。高齢であれば本当に引退するしか選択肢はないのだろうか。たしかに、銀行が開業資金を貸してくれるわけでもなかった。

7人の子供たちのサポート、そして開業
 7人いる子供たちもどうすべきか真剣に話し合った。どういう選択が母親にとって周りにとって最良の選択なのか・・・。
 ”治療範囲は広くはないが、漢方処方による精神科通院治療という方法で患者さんに役に立つことはできるかも”という、医師をしている長兄の言葉がキッカケだった。ひーこ先生の想いを実現するために、子供たちがそれぞれ自分たちができることを考え、協力し始めた。旧勤務先の医療法人の責任者はじめ、ひーこ先生の心意気に賛同する人たちも少なからず現れた。三男は知り合いの不動産や工事業者に掛け合い、自分でも内装を手伝った。三男の妻もカーテンを縫った。費用をかけない方法を皆が協力して模索し、汗をかいた。長兄はひーこ先生本人が倒れた場合をはじめとした様々なリスクを考えて、いざというときのために、周りの医療機関に挨拶廻りをした。それまでのひーこ先生の人徳ゆえでもあった。
 開業費用はごくわずかだったが、数か月後、何とかクリニックは開院した。ただ、患者さんはゼロからのスタートだった。