第6話 原動力の源流を辿る1
未病への対応という理想や、医師としての使命感、漢方を広めたいという熱い想いも持ちながら、基本は患者さんや周囲の人たちのことを考えたり、心配したり、その人たちのために何かすることが楽しく、それが日頃のひーこ先生の原動力ではないか、という話を書いたが、ひーこ先生がなぜそんなふうな想いを抱くようになったのか、少しその源流を辿ってみたい。
病理学教室の大学院修了、そして産婦人科医師としての出発
10歳ごろ、親から“これからは女の子は手に職をつけないといけない。医者か弁護士を目指せれば”と言われたのがきっかけで、医者の道を志したようである。
京都のある医科大学に在学時、病理学教室でタイピストのアルバイトをした縁で、大学院も病理学教室に所属したという。当時は今のようにパソコンの文書アプリがあるわけではなく、教授はじめ研究者が英語で論文を書く場合はタイピングが必要であったが、少しでも間違うと全文打ち直しになるため、優秀なタイピストを教室に置いておく必要があり、教室側がひーこ先生を離さなかった可能性がある。ひーこ先生も必要とされることはまんざらでもなかったのか、流れに任せて大学院はタイピストも継続しながら病理学教室で過ごすのだが、そこで将来夫となる男性と出会うのだがら、人生の巡り合わせは分からないものである。
結婚、出産、そして専業主婦へ
大学院修了後、ひーこ先生は医師(医学博士)として産婦人科教室に入局したが、ほぼ同時期に結婚、出産(長女)を経験している。そこから8年の間に5人の子宝に恵まれたが、短い産休期間を経て、すぐに産婦人科医として現場に復帰することを繰り返した。その間ずっとひーこ先生の母親が毎日家に通って子育てを手伝った。母親との二人三脚でなんとか医師としての歩みを止めなかったが、5人目の三女が誕生したとき、さすがに医師としての歩みを一時停止する決断をする。
ある意味、医師としての初期は、結婚、出産、子育て、仕事との両立と、人としての活動は忙し過ぎるほどだったが、医師として集中できる環境にはなかったとも言える。そして、その後専業主婦へ。自分がこのような状況に遭遇した場合、医師としての道は絶たれたと悲観的に捉える人もいるかもしれない。しかし、ひーこ先生はそうは感じなかった。
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