2022年5月19日一人の人間として

興味・関心のあることにチャレンジし、行動しながら学ぶ
 専業主婦時代、家事や子育て、夫の歯科診療所の手伝いなどに追われながらも、ひーこ先生は自身の関心のあることに積極的にチャレンジした。四柱推命、女子栄養大学(栄養学)の通信課程はその代表であるが、それ以外にも興味があることにはまず飛び込んで、行動しながら学んだ。卒業までは至らなかったものの、実は慶応大学文学部(通信課程)にも入学し、主に心理学を学んだ。その行動力は子どもたちも驚くばかりで、知らないうちに、いつの間にか学びが始まっているというのが少なくなかった。その学びに対する貪欲さというのは90歳になった今でも健在である。
 四柱推命は、独学ではなく先生に師事して本格的に学んだ。動機は子どもたちの健康や将来のことで、何か気づきがあれば備えたいというところからだったとひーこ先生は言うが、家族の運勢をみるだけではなく、医師に復帰してからは周りの人たちの運勢もみて、親身にアドバイスをした。
 女子栄養大学の通信課程では、忙しいなかでも添削課題を提出し、スクーリングもこなし、無事卒業を果たした。そのときに学んだ栄養に関する知識や関心は、心療内科で患者さんと会話する中にも随所に表れる。必ずと言っていいほど、患者さんの日常的な食生活を尋ね、食事や栄養が偏っていないかを確認する。ひーこ先生は、精神と栄養とは深く関連していると考えていて、ビタミンB群などが不足しているとうつ病になりやすいという研究報告もあることから、患者さんの栄養状態には関心が深い。専業主婦時代の学びはそんなところにも生かされている。

学びと行動の結果、現実がいつの間にか変化していく
 学ぶこと、成長することにつねに前向きで、現状に甘んじたり、埋もれたりすることがほぼない。多くの場合、目の前の希望のない現実が今後も続くかもしれないと考え、不安で一杯になるように思われるが、ひーこ先生の場合、同じように不安になったり、逆にその現実と対峙してもがいたりわけではなかった。様々な厳しい現実を目の前にしながらも、自身の関心あることにチャレンジしながら、周りの役に立ちたい、そのためにさらに学びたいという想いをもち、行動しつづける。そして、自身が学び、成長する過程で、目の前の現実がいつの間にか変化していく、そんなひーこ先生の専業主婦時代の日々だった。

2022年4月27日母として

 ひーこ先生の子育ては、もちろん大変なことばかりではなかった。七人の子どもたちは、それぞれにひーこ先生から愛情を感じながら、にぎやかな家族のなかで、事件や事故を起こすことなく、比較的自由に成長していった。

無理をしても子どもたちに寄り添う
 子どもたちが困っていたりすると、自分が多少無理をしても手伝う側面がひーこ先生にはあり、子どもの夏休みの課題などを手伝って徹夜したりすることもよくあった。そんなときでも、翌朝はいつも通り家事をこなして、体がきつそうな素振りは見せなかった。子どもたちに必要だと思ったり、子どもがやりたいと望めば、習い事も極力させた。そろばん、ピアノ、エレクトーン、バイオリン、柔道に、絵画教室、塾など、お金がかかって多少無理してでも、なんとかやり繰りしながら習わせた。無論、子どもたちには親がやり繰りしていることは知る由もなく、習い事の帰りに時々美味しいものを奢ってもらうことを楽しみに通っていたのかもしれない。

“大らかな”性格
 子どもたちは、自分たちが小さかった頃のひーこ先生のことを語るとき、良く言えば“大らかな”性格のことを微笑ましく回想する。家族が九人もいれば、各自の皿に料理が盛り付けられるような手間のかかることはなく、肉と野菜が大皿にドンと載っていて、それを各自が自分の取り皿に取って食べた。もちろん早い者勝ちなので、のんびりしていると料理にありつけない。のんびりした大人しい性格の子どもが育つはずもなかった。
 子どもたちに持たせるお弁当は、ひーこ先生の性格を物語る一つの象徴だった。白ご飯に白い餃子ということもあった。ご飯が炊けるのが朝の通学時間に間に合わず、昼休みに学校にお弁当を届けてもらった子どもがお弁当を開けてみると、おかずの入れ物にも白ご飯が入っていて、白ご飯をおかずに白ご飯を食べた、というエピソードもあった。
 ひーこ先生には潔癖症のところがあり、夫の歯科診察室の医療器具を毎日消毒するのに合わせて、他のところもよく消毒液で消毒していたため、子どもたちは学校でよく消毒液のニオイがすると言われていた。勢いあまってノートパソコンを消毒液で拭き掃除することもあった。残念ながら、パソコンの基盤に消毒液が染み込んでショートし、壊れたりしたこともあった。

上の兄姉が下の弟妹の面倒を見て、ひーこ先生を助ける
 子どもが多いので、旅行に連れていくというのは大変なことだった。そのため、旅行の行き先は決まっていた。毎年夏休みになると、日本海のある海水浴場で子どもたちは海水浴をした。それが恒例かつほぼ唯一の家族旅行だった。
 子どもたちは、男部屋と女部屋に分かれ、兄弟喧嘩をしながらも、誰かひとりが歌いだせば、勉強をしていても他の誰かが一緒に歌いだす。そんな共同生活をしながら成長していった。下の子どもたちが生まれる頃には長女・長男は手伝いのできる年齢となり、小さな弟妹たちの面倒を見て、母親を助けた。
 ひーこ先生は長女・長男などに助けられながら、家事・育児に埋もれることなく、専業主婦時代を過ごしていった。

母として

家事・育児
 ひーこ先生は専業主婦の道に入った。家事・子育てに専念するようになった後、さらに二人の子どもを出産し、七人の子どもを抱えるようになる。一番末娘の出産を前後して、子育てをサポートしてくれていた実母が病気がちになり、しばらくして帰らぬ人となった。一人っ子のひーこ先生が、このとき相当の重荷と孤独を感じたであろうことは想像に難くない。
 七人であろうとも、子ども全員の希望を叶えるだけ十分な教育を受けさせたいと考えていた夫は、専業主婦になったひーこ先生の分も、必死になって働いた。と同時に、子どもが小さい時期の躾には比較的厳しく、とくに男の子どもに対しては叱って外に放り出すということも少なくなかった。そのときのひーこ先生の役割はそっと子どもたちをサポートすることだった。躾に厳しかった夫だが、ひーこ先生自身とともに、子どもたちにあまり“勉強しろ”という言葉は口にしなかった。のちに“あのとき勉強しろと言われなかったから自由に勉強することが出来た”と振り返って、感謝しながら当時を懐かしむ子もいる。

ひーこ先生を悩ませる子どもたち
 七人もいれば、各自に部屋が与えられるほど裕福ではなかった。部屋は男の子と女の子に分けられ、“男部屋、女部屋”と称された。子どもたちは一人になる環境がなかったこともあり、よく兄弟喧嘩をしたが、ひーこ先生は“兄弟なんだから仲良くしなさい”とよく言った。一人っ子のひーこ先生にとって、兄弟が喧嘩をするということ自体が理解できるものではなかったのかもしれない。
 よく食べ、よく活動し、よく勉強できる環境を与えられた子どもたちだったが、彼らなりに悩みや葛藤も抱えていた。腎炎で長期入院を余儀なくされた子もいた。危ないと噂された宗教団体に首を突っ込む子も現れ、通っている高校の先生にひーこ先生が心配して相談することもあった。登校拒否になって苦しむ子もいた。子どもの飲酒が理由で親が中学校に呼び出されることもあった。その度に、夫は“自分の教育の結果だから仕方がない”と半ば達観したようなそぶりを見せていたが、ひーこ先生自身も、苛立って子どもを非難することはほとんどなかった。夫のことでも心配はあったに違いない。表立って不安や心配な様子は見せなかったが、内心は心配と不安でいっぱいになるときもあったに違いない。

体調を崩したり寝込むことなく日々を送る
 それでも、ひーこ先生は、悩んで体調を崩して寝込んだりすることはほとんどなかった。目の前のすべきことをこなした。本人は“健康な体を与えられていたから”と笑って話す。実際は、日々すべきことが多く、悩んでいる暇がなかったのかもしれないが、家事・育児や大変な現実に埋もれることはなかった。生きているだけで儲けものとか、楽しいことだけを考えるようにした、などというような捉え方の工夫をしていたようでもなかった。ただ、いま目の前にあることだけが人生、とは感じていなかったように見える。

一人の人間として

 未病への対応という理想や、医師としての使命感、漢方を広めたいという熱い想いも持ちながら、基本は患者さんや周囲の人たちのことを考えたり、心配したり、その人たちのために何かすることが楽しく、それが日頃のひーこ先生の原動力ではないか、という話を書いたが、ひーこ先生がなぜそんなふうな想いを抱くようになったのか、少しその源流を辿ってみたい。

病理学教室の大学院修了、そして産婦人科医師としての出発
 10歳ごろ、親から“これからは女の子は手に職をつけないといけない。医者か弁護士を目指せれば”と言われたのがきっかけで、医者の道を志したようである。
 京都のある医科大学に在学時、病理学教室でタイピストのアルバイトをした縁で、大学院も病理学教室に所属したという。当時は今のようにパソコンの文書アプリがあるわけではなく、教授はじめ研究者が英語で論文を書く場合はタイピングが必要であったが、少しでも間違うと全文打ち直しになるため、優秀なタイピストを教室に置いておく必要があり、教室側がひーこ先生を離さなかった可能性がある。ひーこ先生も必要とされることはまんざらでもなかったのか、流れに任せて大学院はタイピストも継続しながら病理学教室で過ごすのだが、そこで将来夫となる男性と出会うのだがら、人生の巡り合わせは分からないものである。

結婚、出産、そして専業主婦へ
 大学院修了後、ひーこ先生は医師(医学博士)として産婦人科教室に入局したが、ほぼ同時期に結婚、出産(長女)を経験している。そこから8年の間に5人の子宝に恵まれたが、短い産休期間を経て、すぐに産婦人科医として現場に復帰することを繰り返した。その間ずっとひーこ先生の母親が毎日家に通って子育てを手伝った。母親との二人三脚でなんとか医師としての歩みを止めなかったが、5人目の三女が誕生したとき、さすがに医師としての歩みを一時停止する決断をする。
 ある意味、医師としての初期は、結婚、出産、子育て、仕事との両立と、人としての活動は忙し過ぎるほどだったが、医師として集中できる環境にはなかったとも言える。そして、その後専業主婦へ。自分がこのような状況に遭遇した場合、医師としての道は絶たれたと悲観的に捉える人もいるかもしれない。しかし、ひーこ先生はそうは感じなかった。