第7話 原動力の源流を辿る2
家事・育児
ひーこ先生は専業主婦の道に入った。家事・子育てに専念するようになった後、さらに二人の子どもを出産し、七人の子どもを抱えるようになる。一番末娘の出産を前後して、子育てをサポートしてくれていた実母が病気がちになり、しばらくして帰らぬ人となった。一人っ子のひーこ先生が、このとき相当の重荷と孤独を感じたであろうことは想像に難くない。
七人であろうとも、子ども全員の希望を叶えるだけ十分な教育を受けさせたいと考えていた夫は、専業主婦になったひーこ先生の分も、必死になって働いた。と同時に、子どもが小さい時期の躾には比較的厳しく、とくに男の子どもに対しては叱って外に放り出すということも少なくなかった。そのときのひーこ先生の役割はそっと子どもたちをサポートすることだった。躾に厳しかった夫だが、ひーこ先生自身とともに、子どもたちにあまり“勉強しろ”という言葉は口にしなかった。のちに“あのとき勉強しろと言われなかったから自由に勉強することが出来た”と振り返って、感謝しながら当時を懐かしむ子もいる。
ひーこ先生を悩ませる子どもたち
七人もいれば、各自に部屋が与えられるほど裕福ではなかった。部屋は男の子と女の子に分けられ、“男部屋、女部屋”と称された。子どもたちは一人になる環境がなかったこともあり、よく兄弟喧嘩をしたが、ひーこ先生は“兄弟なんだから仲良くしなさい”とよく言った。一人っ子のひーこ先生にとって、兄弟が喧嘩をするということ自体が理解できるものではなかったのかもしれない。
よく食べ、よく活動し、よく勉強できる環境を与えられた子どもたちだったが、彼らなりに悩みや葛藤も抱えていた。腎炎で長期入院を余儀なくされた子もいた。危ないと噂された宗教団体に首を突っ込む子も現れ、通っている高校の先生にひーこ先生が心配して相談することもあった。登校拒否になって苦しむ子もいた。子どもの飲酒が理由で親が中学校に呼び出されることもあった。その度に、夫は“自分の教育の結果だから仕方がない”と半ば達観したようなそぶりを見せていたが、ひーこ先生自身も、苛立って子どもを非難することはほとんどなかった。夫のことでも心配はあったに違いない。表立って不安や心配な様子は見せなかったが、内心は心配と不安でいっぱいになるときもあったに違いない。
体調を崩したり寝込むことなく日々を送る
それでも、ひーこ先生は、悩んで体調を崩して寝込んだりすることはほとんどなかった。目の前のすべきことをこなした。本人は“健康な体を与えられていたから”と笑って話す。実際は、日々すべきことが多く、悩んでいる暇がなかったのかもしれないが、家事・育児や大変な現実に埋もれることはなかった。生きているだけで儲けものとか、楽しいことだけを考えるようにした、などというような捉え方の工夫をしていたようでもなかった。ただ、いま目の前にあることだけが人生、とは感じていなかったように見える。
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